伊藤哲司の「日々一歩一歩」

ここは、茨城大学で社会心理学を担当している伊藤哲司のページです。日々の生活および研究活動で、見て聞いて身体で感じることなどを発信していきます。

2016年の初めに

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 あけましておめでとうございます。2016年が明けました。名古屋の実家でちょっと早起きして、住宅4階のベランダから、快晴の初日の出を拝みました。そして両親と自分のために雑煮をつくって、ささやかに元旦のお祝いをしました。80歳の父、79歳の母ともに、有り難いことにまずまず元気です。

 実家の雑煮は実にシンプルです。醤油味の汁にもち菜とナルト、それに花鰹をドッサリ入れるのがポイント。でもこれが、簡素にしてなかなか味わい深いのです。雑煮といえば私にとって、ずっとこれでした。今年もこの雑煮を、両親と一緒に食べられる、そんな幸せを噛みしめています。

 振り返ってみれば、戦後70年だった昨年はけっこう酷い年でした。言うまでもなく安保法制強行採決、そして沖縄・辺野古の問題。福島の問題はそのままに再稼働される原発。民意が明確に示されても、それを何ともなかったかのように一見ソフトに押しつぶしていく政権。さらにそれを「支持」してしまう多くの人たち。テロが蔓延する世界をつくった根本に与するかのようにソフトに突き進む世界と、それに乗ずることに疑問を抱かない日本。この何とも言えない危機感の薄さ、それに浮遊感はなんでしょう。批判の声が封印されようとしているテレビを始めとするマスメディア。まだまだ世界の問題は数知れず。地球温暖化と気候変動が実感されるレベルとなり、きな臭さが増す世界の中で、私たちはいったいどこへ進もうとしているのでしょうか。

 複雑化するこの社会、しかしその根本はそんなに難しくなくて、この雑煮のように案外シンプルだと思うのです。大事なのはライフ。私たちの命であり、生活であり、人生です。それ以上に大事なものなどありません。ちゃんと目を見開いて、私の、家族たちの、友人たちの、そして世界の人々のライフが脅かされないような世界をどうつくっていけるのか、考え、そしてできるところから行動していきます。

 私は今年で52歳になります。「五十にして天命を知る」と言います。自分のやるべきことを知り、今年はシンプルにまた一歩一歩と前進してみるつもりです。このブログを書くのは実に久しぶり。今年は継続的に書いていけたらいいな。今年もどうぞよろしくお願いします。

「非暴力」の心を言葉にして

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 先日、茨城県下のある県立高校で行った模擬授業「非暴力で世界に関わる方法」を受講してくれた高校生たちの感想が届きました。全員分ではなく、ある程度先生がよく書けたものを選択して送ってくれたようなのですが、それにしてもまだまだ本当に若い高校1年生たちが、しっかりと話を受けとめ考えて書いてくれたことが、存分にうかがえる内容でした。こんな若者たちがいるなら、未来もそう暗くはないという気がしてきます。そのいくつかを抜粋・引用します。

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 私はこの講義を受けて、当たり前だと思っていたこの平和はとても素晴らしいものなんだということ、そして、その平和が壊されてしまう危機にあるということを学んだ。それから、いつも他人事のように見ていた他の国の戦争などのニュースも、講義を受けてから身近なものなんだと見方が変わってきた。

 私は軍隊を保持する必要性について、疑問を持っています。戦争は犠牲を生むだけで、何も生み出せません。身体だけでなく心に負った深い傷は癒やせることなく、悲しい記憶と共に一生消えることはないのです。

 「集団的自衛権」は、国民が示している「日本国憲法第九条」とはとても内容が異なっていて、一番憲法を擁護する義務のある総理大臣が、率先して「新三要件」を無理やり押し通そうとしているのは、あってはいけないことだと思いました。

 そもそも憲法とは、国民主権の日本において、国民から国に出したものであり、擁護・尊重すべきものです。その憲法に矛盾する内容を含む集団的自衛権は、果たして本当に我が国のためであり、許されるものなのでしょうか。そろそろ現代に合わせた憲法にすべきだという意見もありますが、わたしは、憲法第9条については今のままが絶対良いと思います。ここまでの平和主義はどこの国にもない、誇るべきものだと思うからです。

 ウルトラマンは、物語の中ではかっこいい正義のヒーローだが、それは怪獣という絶対的な悪があってこそ。現実では、正義や悪は人それぞれなので、絶対的ではない。よってウルトラマンには、正義とは何かは語れない。これを聞いて、私は自分の中の、今まで当然だと思ってたことが、バラバラに砕かれたような感覚に陥りました。

 何が正義で何が悪か。それは誰にも答えられないのです。テロリストだからといっても絶対に悪とは限らないし、戦争は、言うなれば正義と正義のぶつかり合いなのかもしれない。先生はあ然とするわたしたちに、優しくも力強く話してくれました。

 キング牧師の有名な演説の中で「I have a dream」がありますが、講座中に半分くらいを伊藤先生が読んでくださいました。そこで気づいたのです。「I have a dream」の中には一文も、黒人を弾圧していた白人への非難が、書かれていなかったのです。キング牧師は白人を許して、これから一緒に仲良く生きていける。そんな未来を、言論によって創っていきたかったのだろうと思いました。

 哲司先生は非暴力を求めるには、「まず自分自身が身近な人に手を上げないことだ」とおっしゃいしました。それには、ストレスに負けない感情のコントロールや忍耐力が必要なのではないかと思います。

 伊藤先生はこんな事を、講座の結びにおっしゃっていました。「自分にはひとつ自慢があります。それは自分の子どもに一度も手を上げたことがないという事です」。なるほどなと思いました。痛みでは負の感情しか生まれない。しっかり言えば、子どもだってちゃんと分かってくれるそうです。こんな身近にも「非暴力」があるのだなと、実感しました。

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 話しにくいテーマなのですが、たぶんそれは高校の先生たちも同じで、だからこそ私に依頼してくるのだと思います。もちろん反対の意見をもつ高校生もいるだろうと思いますが、問題提起を明確にするのも役割かと。今年まだいくつかの高校で、このテーマで話をする予定があります。これからもしっかり「非暴力」の心を言葉にして伝えていきたいと思います。

6回目のサステイナビリティ学国際演習

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 9月上旬にタイ・プーケットでの国際実践教育演習が行われ、今年も引率者の1人として参加してきました。今年が6回目となるこの国際演習、茨城大学プーケット・ラチャパット大学との共同授業です。茨城大学からは院生10人と学部生2人が参加。ラチャパット大学からは、学部生十数人の参加がありました。

 今回もプーケットの北部にあるマイカオ村をフィールドとし、「エコツーリズム」「廃棄物処理」「健康増進」の3つのテーマごとにグループをつくり、村人の協力も得て、調査・検討が行われました。学生たちは村に3泊ホームステイしながらの演習です。共通言語は英語。ただどちらの学生も得意とは言えず、コミュニケーションをとるのに四苦八苦していましたが、そこも乗り越えていくのがこの演習です。

 毎年同じ場所に来ているので、私にとってもすっかり顔なじみになった人が何人もいて、とりわけ村に滞在中ご飯をつくってくれるおばちゃんたちには感謝感謝です。甘辛いことで有名なタイ料理ですが、おそらく日本人の私たち向けに、少し辛さ抑えめでつくってくれていて、今回も毎度美味しくいただくことができました。

 今回私が学生たちにとりわけ強調したのは、このマイカオ村の問題を、少なくともここに滞在している間は自分自身の問題として捉えることです。サステイナビリティというと地球温暖化のようにグローバルな問題に目が向きがちですが、問題というのはそもそもローカルに立ち上がるものだからです。このマイカオ村というローカルで考えた問題は、そこだけに留まらず、他のローカルにも通じることが見えてきます。学生たちも呼応して、それなりにしっかり取り組んでくれました。

 今回よかったのは、ラチャパット大学も正規の授業としてくれたこと。それによって学生たちの参加のモチベーションが今までよりずっと上でした。それに若手の先生たちがスタッフとして終始関わってくれたことです。そうしたタイの先生たちと親交を深められたことで、またこの地にも、あらため縁ができたと実感しました。

 もともとはインド洋大津波(2004年12月)の調査のため2005年3月にこの地を訪れたのがきっかけでした。プーケットにも大きな被害をもたらしたあの津波がなかったら、国際演習をこの地で開くことはなかったでしょう。当時からお世話になっている現地旅行会社社長の玲子さん(写真左)がいることも、大きなことです。彼女とは、プーケットだけでなく、その周辺もずいぶん一緒に歩きました。

 来年もまたプーケットに行きます。ただ6回も同じ場所でやってきたということで、フィールドとする場所はちょっと変わるかも。そういう相談がすでに始まっています。またよりよい国際演習の機会をつくり、学生たちに提供していきたいと考えています。

 (写真は、打ち上げの食事会で、主に食事をつくってくれていたおばちゃんたちと。真ん中一番奥は、いつも陽気な村長)

アイデンティティの拠り所

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 いわゆる従軍慰安婦に関する朝日新聞の「誤報」が問題になっています。朝日新聞が長年論拠のひとつとしていた証言が実は本当ではなかったということについて、他の新聞や週刊誌から、激しいバッシングが続いています。ここぞとばかりに、朝日新聞の廃刊まで主張する声もあるようです。

 もちろん「誤報」がいいわけはありません。事実であるならば、訂正されてしかるべきです。過ちを過ちと認めないという態度が許されるはずはありません。そのことを前提として考えても、今回の朝日バッシングには違和感を覚えます。端的に、あまりに度を超しているように思いますし、従軍慰安婦の問題がこれで「なかった」という話に繋げられるのは、まったく筋が通っていないからです。

 ある週刊誌は「売国のDNA」という見出しを掲げ、その雑誌の広告を朝日新聞が掲載拒否をしたということですが、「売国」とはいったい何なのでしょうか。国を売るってどういうこと? そもそもその「国」とは、何を指しているのでしょうか。

 「お国」という言い方には「故郷・古里」といった含意もありますが、ここでの「国」は、むしろ「国家」を指しているのだろうと思います。「国の誇り」と言うときの「国」とほぼ重なっているのでしょう。「国家」という言葉自体も多義的ですが、いずれにしてもそれは、個人のアイデンティティの拠り所のひとつになるうるものです。自分自身のアイデンティティの一部が「国」にあり、その「国」を売られてしまう、つまりそこに汚名を着せられるようなことがあっては、どうにもこうにも我慢ならないということかと推測します。

 いわばナショナリズム、それを重視する立場は、そのまま今の安倍首相をはじめとする政府の立場ともぴったり重なります。いわゆる河野談話を見なおすつもりはないとした菅官房長官も、本音では見なおしたいのではないでしょうか。しかしそれをやってしまえば中韓からの反発は必至。さすがにそれはということで、政治的な判断が働いているのだろうと思います。

 ナショナリズムのすべてを否定的にとらえなくてよいのかもしれませんが、ヘイトスピーチの問題を挙げるまでもなく、それはしばしば容易に排外主義に結びつきます。外から見れば「敵」に見えるでしょうし、国民国家という枠組みの収まらないところで生きている人たちに ― いわゆる在日の人たち、また無国籍の人たち等々 ― とっては、とても困惑させられるイズムでもあります。

 ちなみに、国家が武力行使という手段を視野に入れるときには、このナショナリズムが欠かせません。「国」にアイデンティティの拠り所を強く求める人々がいあるからこそ、「国」を守るための武力行使が可能になっていくのですから。

 私も「何人ですか?」と問われれば「日本人です」と答えます。日本人の親から生まれ、日本で生まれ育っち「日本文化」を自ずと身につけてきたことを思えば、「日本人」と答えるのに躊躇いは感じません。でも自分のアイデンティティの拠り所が日本という「国」にあるかと言われれば、答えは限りなくNoです。あえて言えば、私のアイデンティティの拠り所は、主には自分の身内や友人たちとのつながりにあります。それを「国」という単位でくくることはできません。だってそこには日本人以外も含まれているのですから。

 従軍慰安婦の問題については、何が起こったのかを率直に知りたい。それが日本という「国」にとって汚点となること、一部の人が言う「売国」であったとしても、何もそれを知ろうとしないままナショナリズムに傾倒していくのは、かえって人間として恥ずかしいことであると思うのです。

 ところで今年度前期、400人超の学生を相手に行った授業で、幾人かの受講生から、「先生は偏っている」といった結構激しい批判の言葉を受けました。最終レポートに伊藤は「浅慮」で授業は何も役に立たなかったという主旨のレポートを書いてきた学生もいまいた。私が招いたゲストスピーカーが偏っていてけしからんという声もありました。以前にも学生からの批判はありましたが、今年は妙にそれらが強い調子だなと感じました。

 いずれも私には顔を見せてこない受講生たちからの声です。直接話をしていないので、どんな学生たちなのかよくはわかりませんが、昨今の朝日バッシングに通じるような臭いをかんじます。あたかも一事が万事であるかのように取り上げ、しかもそれを自分の都合の良いようにねじ曲げて解釈して、決めつけから相手を全否定するような言動をとる傾向  ―― それが若い学生の中にも生まれているとしたら、これはかなり憂慮せねばならない事態だと思います。

 この時代、そんな学生たちのアイデンティティの拠り所にも、今後強く関心を抱いていかねばと思っている次第です。

 (写真はJR新宿駅・アルタ前。本文とはとくに関係ありません。)

東北縦断の旅

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 東日本大震災から3年半近く、今年の夏は、またあらためて「被災地」を縦断してみようと思っていました。そしてそれを実現させるべく、2014年8月18日~24日にかけて約1週間にわたる東北の旅をしました。盛岡・宮古・遠野・気仙沼・仙台、そして娘のアパートがある大田原にそれぞれ1泊、計6泊の車の旅でした。車での走行距離は1670キロぐらい、日本列島縦断の半分以上になりました。
 父と娘、そしてベトナム人留学生が同行する、ちょっと不思議な組み合わせの4人旅でした。ひとつの家族のような、そうでもないような。でもずっと留学生のフオンさんも、私たちに馴染んでやってくれました。私の運転で、震災後にまだ行っていなかった青森県八戸まで北上し、そこからずっと三陸海岸を南下し宮城県女川町まで走りました。陸奥・陸中・陸前の三陸海岸、そこがすなわち大震災の未曾有の津波被災地になってしまったわけですが、そこをほぼ通して歩いてみることができました。
 三陸海岸の様子は、けっして一様ではありませんでした。そして復興の歩みも、それぞれ違った様相を見せていました。各々の地形、街の構造、そして社会事情等の違いもあります。高台移転が進みつつあるところ(野田)、もともと高台移転されていて被害が最小限だったところ(吉浜)、水門でしっかり守られたところ(譜代)、草原が広がったようになってしまったところ(大槌)、巨大なベルトコンベアで地面のかさ上げが進行中のところ(陸前高田)……。どこも、震災によって新たな問題が生じたというよりも、どれももともとその地が抱えていた「問題」が顕在化したと言うほうが正確だろうと思います。
 多くの人命が失われ、いまだ見つからない人も数多く、そのひとつひとつのかけがえのなさはけっして戻ってはきません。犠牲者に数多く接したという漁師の語りは、津波で亡くなった人はそのときのままの驚いたような表情のまま亡くなっていたといった生々しいものでした。私自身そうした厳しい状況には立ち会っていないという負い目も覚えました。あちこちでダンプが走り重機が動いている様子は復興の一端であり、そこには希望の光も垣間見えます。もちろん福島に行けば、復興のスタートにすら立てない厳しい現状もあります。
 私たちすべてが、この現実を忘れず向きあい続けていく必要があると思います。まだまだ長い道のりです。これからのことも含め、この経験を生かさないところに、私たちの社会の未来はないと思いました。東京オリンピック開催も大事でしょうけど、その前に忘れてはいけない現実があちこちにあります。傍観者であってはいけないと強く思います。私たちはみな、この震災の何らかの意味での「当事者」なのですから。
 父も、娘も、そして留学生も、きっと某かのことを掴んだでしょう。暑さに弱い母は残念ながら同行できませんでしたが、また機会をつくることを考えたいと思います。

 (写真は、草原のようになってしまった南三陸の町と防災対策庁舎)

閉ざされてしまった町で

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  先日(2014年8月2日)、福島の双葉町出身の大学院生・小野田明に案内してもらい、原発事故で立ち入りが厳しく制限されている大熊町双葉町浪江町を視察してきました。富岡町にから国道6号線を北上。まず、福島第2原発のところでスクリーニングを受けました。諸注意を受け、防護服や線量計、それに緊急用の無線などを渡されました。そこで説明してくれたのは、地元の方なのでしょうか。防護服を着ているわけでもないごく普通の「おばちゃん」でした。

 6号線に戻ってさらに北上。福島第一原発の入口を示す表示が見えました。あたりの田畑は夏草に一面覆われ、中に入っていく道の入口には、立ち入りを制限する表示とゲートが設けられていて、簡単に入ることができないようになっていました。線量は、1マイクロシーベルト/毎時ぐらい。極端に高くはないとはいえ、人が住み続けられる線量ではやはりありません。暑さもあり、防護服は結局着なかったのですが、それが渡された意図はもちろんわかります。

 小野田くんの案内で双葉海水浴場近辺に行ってみると、海岸伝いに福島第一原発が見えました。建屋の様子まではわかりませんが、煙突群などははっきりと見えます。あれが致命的な事故を起こした原発なのかと思うと、何か得体の知れない感情が湧き起こってきました。海はとてもきれいに見えるし、すぐにでも海水浴ができるかのよう。しかしそこで泳いでいる人は誰一人いません。

 小野田くんが子ども時代を過ごしたという双葉町のメインストリートは、地震で崩れたままの古い家屋がいくつもあり、商店のなかには値札がつけられた商品がそのままになっていました。郵便ポストは「取扱停止」の紙が投函口に。道は十分通れるようになっていましたが、復興がほとんど進んでいないのは、もちろん原発事故があったからに他なりません。ここに住んで生活を営んでいた人たちは、どこに散らばっていってしまっているのでしょうか。

 常磐線・双葉駅の駅舎は小ぶりであるものの、入口には時を告げていたのであろうからくり時計があって、公民館のような設備が隣接されていました。「あまり使われていなかった」と小野田くん。いわゆる原発マネーによる箱物なのでしょう。上野と仙台を結ぶ特急スーパーひたちも止まった駅のレールはすっかり赤く錆つて、草々が覆っていました。電車の復旧はいつのことになるのでしょうか。

 双葉町役場の近くなどに2つの「門」が設けられていて、そこにはこんな文字が大きく横書きされていました。

 「原子力郷土の発展豊かな未来」
 「原子力豊かな社会とまちづくり
 「原子力正しい理解で豊かなくらし」
 「原子力明るい未来のエネルギー」

 素朴に本気でそう考えた住民も少なくなかったのだろうと想像します。そのときの人々はしかし、現在の状況を想像したのでしょうか。

 さらに北上して浪江町に抜け、制限地域をいったん抜け、海沿いの請戸小学校へ行ってみると、津波の被害が激しい体育館も教室も、時計がすべて15時38分で止まっていました。地震から1時間足らずで大津波が到達したことを示しています。でも幸いにここの子どもたち・教職員たちは、素早い行動で無事全員避難ができたと聞きました。一部では「請戸の奇跡」と呼ばれていると、あとからネットで知りました。

 津波で運ばれた小型漁船が残るあたりで写真を撮っていると、パトロール中の警察官がやってきて「職務質問」されるという一面もありました。茨城大学から来たというと、若い警察官に「放射線の研究ですか」と聞かれ、「原発に潜入して写真を撮る人もいますからね」とやや警戒心を向けながら教えてくれました。

 再び制限地域に入り、6号線をまっすぐ南下。常磐富岡インターの手前でスクリーニングを受けました。たくさんのスタッフがそこにいて、車と足の裏の線量を測定され、無線機を返却し、そこでもまた防護服を着てない普通の「おばちゃん」から簡単な説明を受けました。南北に分断された6号線、そこを通るぐらいならもうできるようにしてもいいのではと、率直に思いました。

 被災地は何度も訪れていても、制限地域に入ったのは初めてでした。小野寺くんは、もっと紹介したいところがあると言います。「閉ざされてしまった町」がいつかまたちゃんと「開いた町」に戻れるまで、重大な関心を抱き続けていきたいと思います。

 (写真は双葉町にて。6号線から海の方向を眺めて。写っていないが、右手奥のほうが福島第一原発

 

ハノイで過ごした濃厚な時間

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 7月25日から29日までの4泊、ベトナムハノイで過ごしました。短い滞在でしたが、今回もまた濃厚な時間を過ごすことができました。
 ベトナム社会心理学会での発表と、ベトナム社会科学院東北アジア研究所での講演が今回の仕事のメインでした。そのことを通してまた新たに出会った人たちもいましたし、これからさらにその縁が続いていくだろうと強く感じることができました。研究面でのつながりも、あらためてできていくことになりそうです。
 16年前にハノイで在外研究を行っていたときからのつきあいになるメンさん一家、その少し後に当時あった日本研究センターで知り合ったランさん、数年前に茨城大学に留学していたリンさんとハインさん、研究発表を手助けしてくれてドゥオンラム村にも連れていってくれたハノイ大卒のフオンさん、家族ぐるみ姉妹ぐるみのつきあいになりつつあるアインさん三姉妹、出産直後にもかかわらず会いにきてくれたタンロン大学日本語講師のミンさん、茨城大学が協定を結んでいてこれからまだ展開がありそうなハノイ科学大学准教授のドックさんと彼の学生のハンさんとその妹さん、ピザを一緒に食べにいったホアさんとリンさん、夜中遅れてやってきて独り身を私を心配してくれたかつての日本語の教え子・ハーさん……、まだ他にも今回会った人たちがいるし、今回は残念ながら会えなかった友人たちもいます。
 私が初めてハノイに行ったのは1992年。当時私は大学院生で、バックパッカーとしての一人旅でした。あれから22年。自転車社会だったハノイを歩いたあのときの私が、今のベトナムの縁の広がりを想像できたはずもありません。自分でもこの展開にはまったく驚くばかりです。
 でも私は、ベトナム社会がすべて素晴らしいなんて思っていないし、いろいろと気になることもあります。最後サイゴンでの乗り継ぎのわずかな時間に夕食をともにしたトゥイさんは、「伊藤さんの目から見て、今のベトナム人たちは率直にどう見えますか?」と問われました。やはり経済優先、拝金主義的な傾向が強くなってきていて、いわゆる格差の問題がますます深刻になっていること、そして人々のライフスタイルの変化で、運動不足や肥満の問題なども生じつつあるのではないかと話しました。そして、「そうした問題の多くは、すでに日本社会が経験したことであり、それらを解決したとは言わないけど、そうした日本社会の面もちゃんと見てほしいですね」と答えました。
 もちろん都市部でバイクや車があふれる交通問題も深刻。とても持続可能な都市にはなっていません。規制しようにも反対が大きくてできないとも聞きました。個人のエゴがギラっとも見える気がします。自分の利便性の追求が、全体の不利益に繋がるというジレンマに、どこかでベトナム人たち自身が気づく必要があるでしょう。
 「ベトナム」を通して日本の見返すことも、「ベトナム」を通して世界を見ることも、研究者としてもとても有益だと思っています。ベトナムの友人たちとの縁をこれからも大切に、さらに関わり続けていくつもりです。ハノイの路地が、やはり好きですし、そこからも世界の問題が見えてきますから。
 今回会ったハノイの皆さん、ありがとう。また必ず会いましょう。Hen gap lai !
(写真は、ハノイ駅南の線路。この線路は中国へと繋がっています。ということはヨーロッパまで繋がっているということですね。)
 

「聞き書き」という継承の方法

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 福島県双葉郡富岡町を離れて生活している若者たちが、同郷の年長者の語りに耳を傾けて聞き書きをする次世代継承プロジェクト「おせっぺとみおか」が、東京・八王子セミナーハウスで2日間にわたって開かれました。中高生たちが「自ら育った地域の歴史・風と、先人たちの教えなど有形無形の財産を学び」、「故郷に脈々と息づいてきた『暮らし』を継承する行為から、自らの生活を考え、将来を生き抜いていける力を養うこと」を目的とした企画です。
 私はオブザーバー的な参加で、そのなかではわりと自由に見ていられる立場でした。まず、民俗学の先生による「町、暮らしを伝えるとは」という講話があり、その後「聞き書き甲子園」などの取り組みをリードしてきたNPO法人の方による聞き書きの具体的な進め方や注意点などについての講習がなされました。その内容はわかりやすく、普段大学でインタビューの方法論等を教えている私にとっても大いに勉強になる内容でした。

 そして2日目、語り手となる富岡町在住だった年長者2人それぞれにインタビューが実施されました。その間も、社会学などの先生がサポートするという手厚さで、丁寧な聞き書きができるよう、周到に進められていきました。もちろん初めてこうしたことに取り組む若者たちですから、上手くいっていないところも垣間見えてきます。それも含めての経験ということになるのでしょう。2日目午後は振り返りが行われ、聞けたこと、聞けなかったことの整理が行われました。最後にインタビューをした若者の1人が、「自分のふがいなさに気づいてしまった……」とちょっと泣き出しそうな表情を見せていましたが、ああこれは本物だなと思いました。いい加減に取り組んでいたら、そんな感想は出てきませんから。

 この聞き書きという方法、今すぐにそこに戻って生活再開をできない故郷の『暮らし』を見失わないための貴重な機会になっていくのだなと思いました。いつ故郷に戻って生活できるのか見通しが立たないなか、しかし10数歳まで確かに自分もそこで生活をしていたという記憶を大切にし、年長者たちの経験の語りから歴史や文化、ひいてはそこでの「暮らし」を継承していく。それは言うまでもなく、かけがえのない機会です。

 今回で終わりではなく、9月にもう一度同じメンバーで続きがあります。そして年度末までに聞き書きのレポートがまとまる予定。企画には大学院生たちもサポートに入り、いい感じだと思いました。インタビュアーになっている若者たちが、今回4人だけと少ないのだけがちょっと残念ではありますが、ここでいい成果が出せれば、これ自体が継続させられるでしょう。9月も続けて参加させていただいて、またそこから私自身も、しっかり学びたいと思います。

大規模授業のやり甲斐と憂鬱

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 大学の授業で大人数の受講生を迎えることを嫌う教員は少なくないのが実情です。出席管理だけでも大変。まじめに聞かない学生も目立つ。どうしても授業の質が落ちる。テストやレポートの採点に膨大な時間が割かれる等々が理由でしょう。実際、一定数以上の受講生がいる授業を担当しなくてはならないというルールはなく、教室の定員を超える受講希望者がきたときは抽選してよいことになっていますから、最初から比較的小さめの教室を選ぶ教員もいるようです。

 私自身は逆に、来るものは拒まずで、むしろ来てくれるならいくらでもと思ってこれまで授業を担当してきました。教室に入りきらないくらい学生が来てくれたときも、授業を2つに分けて行うなどして対応したこともあります。抽選して外れた学生が出てくるのがイヤで、それをずっと避けてきました。だって、何らかの関心を持って学生が来てくれるのですから、拒むなんて論外と、個人的には思っています。

 そんなふうにしてこれまでやってきたら、とくに学部を問わず1年生が受講可能な教養科目の「人間科学への招待」という授業は、受講生が300人を毎年越えるようになりました。150人を越えると「大人数」と呼ばれるのですが、その倍は遙かに超えて、学内で最大規模だと思います。今年度の受講生は430人ぐらい。最初から500人超入る講堂を教室代わりにし、そこで授業を行ってきています。

 大人数だからといって一方的に講義をするのは、私の好むスタイルではありません。できるだけインターラクティブに、つまり受講生とやりとりしながら進めたい。受講生たちにも発言の機会があり、多くの声が交錯する場にしたいと考えています。また毎回学生たちには「コミュニケーション・カード」という用紙に記入をした授業の感想等を記して出してもらっています。

 そのためのひとつの仕掛けとして、Twitterを3年前から導入しました。震災後に私もTwitterを使い始めた時期でした。特定のハッシュタグをつけて、授業中に呟いていいということにしたのです。そのツイートはリアルタイムでスクリーンに映し出される、そんな仕組みにしてみました。こうすれば手を挙げて発言しづらくても、比較的自由に声を出せると考えました。そして他の受講生にとっても、それが刺激になるだろうと思いました。

 ところがなかなかそうは簡単にいかないもので、ニックネームで使えるTwitterは本当に誰の発言だかわからない。「誰が読むかわからないから責任あるツイートを」と話しても、どうしてもそうでないものが流れてくる。授業やりながらそれを私がコントロールすることは不可能で、授業後に次回から問題のあるツイートをしたアカウントからのものは表示されないようにするのが精一杯。どうやらこのやり方は、最終的にいろいろ工夫しても、授業のなかであまり有効に機能させられないという結論に至ってしまいました。

 コミュニケーション・カードは出欠確認を兼ねており、授業前に受講生たちに返し、授業後に記入してまた出してもらうようにしているのですが、最初にコミュニケション・カードだけ取って授業はサボり、適当に書いて出す(それが「出席」ということになってしまう)のが、実数は把握できないのですが、1人や2人ではなさそうだということもわかってきてしまいました。どうやってもズルを学生はいるものですが、こちらは目一杯キャパを大きくして授業に受け入れているのに、そういう行為は信頼を損ねるし、やはり私の立場から目をつむるわけにはいきません。

 講堂の椅子は、どちらかというと「安楽椅子」。午後一番の授業ということもあるのですが、かなりだらしのない格好で眠りこけている受講生の姿も目立つようになってきます。思いがけず寝てしまったというならやむを得ないのですが、どう見てもそうではなさそうな、つまり寝ててもどうにかなると思っているかのような大きな態度。お喋りされるよりはマシですが、どうしても教室全体の雰囲気がだらけます。授業の内容で惹きつけようにも、やはり限界もあります。

 Twitterは、もう使わないことにしました。コミュニケーション・カードをどうやって授業に実際に出てる学生だけに返すかは、まだ妙案がありません。遅刻してくる学生をどう扱うかも悩ましい。居眠り・お喋りにもなかなか有効な手立てがないのですが、後3列の席は使用禁止にしたら、多少は締まった雰囲気になったのですが、それも一時的なものかもしれません。

 8割以上の学生たちは、真剣に授業に臨んでくれていると思っています。完璧を目指さず、このあたりで妥協しながらやるしかないかとも思いますが、授業を担当する者の責任として、「授業の質が落ちている」とは言われたくない。そういうことをあれこれ考えると、大規模授業はそれ自体、なかなか憂鬱なものでもあります。

 今年度前期の授業も、残り3回。後期は、このような大規模授業の担当はありません。大半の学生は理解してくれていると考え、残りの授業にどうにか気を張って臨み、また来年度どんなふうにやるか考えてみたいと思います。多くの学生たちに一度に働きかけられる機会、ここまでの積み上げの成果でもあり、それを自ら失うことのないようにいきたいと思っています。

大事なことを忘れないために

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 このところ理不尽に思えるニュースが多すぎて、少し前のニュースを思い出しがたくなっているような気がします。韓国でのフェリー沈没事故は今年4月16日の出来事。それからしばらくそのニュースが続きましたが、もうずいぶん以前のもののように思えます。都議会の女性蔑視ヤジのニュースですら、まだ1ヶ月もたたない6月18日のものなのに、すでに記憶の中心から少しずれている。なにせその後の、集団的自衛権容認の憲法解釈変更の閣議決定のニュースがあまりに大きすぎて、他のものが吹っ飛んでしまったように感じます。

 「歴史的」な閣議決定は7月1日でした。ブラジルで開催中のサッカーワールドカップ、その決勝トーナメントの1回戦に重なっていたのは、日本が決勝トーナメントに進出することを見越してではなかろうかという気がしてなりませんでした。実際には予選敗退だったわけですが、日本チームが決勝トーナメントを戦っていれば、国民の目はそちらに向くと、為政者たちがずる賢く考えてもおかしくありません。

 そうでなくても私たち、思いの外、一時的に熱しても冷めやすい。秘密保護法のことで多くの人たちが声を上げたことなど、いつのことだったかと思っている人もいるのでは。集団的自衛権容認の抗議デモに若者もけっこう官邸前に行ったと言われていますが、私のまわりの学生たちに議論をする場を呼びかけても、残念ながら反応はとても薄いものでした。私は自分の講義で「この問題に関心を」と呼びかけたのですが、むしろ「先生」から「偏った」情報が発信されることを極端に嫌う学生がいることをTwitterでのやりとり等で知りました。

 どうも忘却のためのメカニズム、それに重大なことなのに目が向かないメカニズム、そして自分にとって違和感を覚える意見を初めから遠ざけるメカニズムが確実に働いていて、時の権力者たちは、そうしたことをよく知っているのでしょう。一時的にデモがおきたって、それはあくまで一時的。いずれに冷めていくに違いない。最初から冷めている人たちも少なくない。そうすれば自分たちが決めたことが、いかに正しかったかも見えてくる。かつての安保闘争でも、結局そうだったじゃないか……と。

 でもそんなメカニズムに乗っかってしまうリスクは、そろそろ限界に達しているという気がします。言うまでもなく、憲法の「解釈」がごく少数の人たちの閉じた議論によって決められ国のかたちが変えられてしまつつあるという、あまりに大きな問題が起こっているためであります。しかし、たとえ官邸前デモをNHKが無視してほんど報じないとしても、今は自分たちでも情報発信ができるツールがある。そして幸いなことに、それらを使う自由は私たち一人ひとりにありますね。声を上げようと思えば、誰でもやりうるわけです。

 東日本大震災の傷跡はまだまだ深く、福島第一原発事故の収束もままならないまま、2020年の東京オリンピック開催を決め、再び原発を稼働して経済発展を目指そうこの社会。秘密保護法、そして憲法解釈変更……。その方向は本当にこれでいいのだろうかという思いを、繰り返し問い続けていかねばと思います。沈黙はしません。おごるな人間。おごるな私たち。私たちはもともと、大きな地球の自然の一部に過ぎないのですから。

 (写真は、大型の台風8号が通り過ぎた茨城大学水戸キャンパスの夕景)

この国のかたちのゆくえ

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 2014年7月1日、この国のかたちが大きく変わってしまう「大事件」がありました。言うまでもなく、憲法解釈を変更しての「集団的自衛権」の行使容認閣議決定です。首相官邸前では、前夜万単位の人々が抗議にために集まりデモを行いましたが、その夜のNHKニュースはそれを一切報じないという徹底ぶり。近頃つづいていたNHK会長らの数々の発言と見事に符合する、NHKらしい対応でもありました。

 この閣議決定がなされたからといって、すぐに戦争が始まるとはさすがに私も思いません。賛成意見には共感しませんが、そういう意見の人たちも少なからずいることもわかっています。しかし、これだけの懸念や反対の声が各方面から出されているにもかかわらず、与党だけの密室での会議で話が進み、そしてこの閣議決定に至ったということは、どう考えてもおかしい。せめて立ち止まって考えてみることが必要なのに、それをしない。こういうのを「暴走」と言わずして、なんと形容したらいいのでしょう。

 秘密保護法が承認された半年前もそうでした。安倍首相をはじめ閣僚たちの頭には「決められる政治」が最優先と思っているのでしょうか。自分たちは絶対に正しい。批判が強いのは、国民の理解が追いついていないからだ、と。そうえば閣議決定後のNHKニュースの大越キャスターは、意識してかせずか「国民の理解が追いついていない……」とポロッと口にしていましたね。そんなに「理解不足の国民たち」が反対の声を上げているとでも言うのでしょうか。

 どう考えても理不尽です。おかしいです。だって日本国憲法第九十九条には、「天皇又は摂政及び国務大臣国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とあるのですから。首相や官僚たちは誰よりも「この憲法を尊重し擁護する義務を負う」わけですから。

 しかし閣議決定はなされてしまいました。反対意見は聞く必要はない、憲法は尊重することはない、都合のいいように解釈してよいというメタメッセージを子どもたちにも発信してしまいました。私の中2の息子は、「ニュース見てたか?」と私からの問いかけに、「いかんね。だって国民の声を聞かないじゃん。上だけで決めちゃうなんてね。いやだねぇ」と話していました。我が息子、ちゃんと「理解」しています。

 ただ、これだけのことが起きているのに、身近な学生たちの関心があまり高くないように見えるのが気になります。どこかまだ他人事のような顔をしているように見えるのが、私の勘違いならいいのですが。授業では直接取り上げづらいけど、議論の場を学生たちとつくってみたいなとも思っています。さて応じる学生たちはいるかな?

 この国のかたちのゆくえが心配です。安倍首相は「抑止力」を強調しますが、やはりアメリカの戦争に巻き込まれる可能性が確実に高まったと言わざるをえない。一人の責任ある大人として、私なりに声を上げ続けていきたいと思っています。
 (写真は7月1日の新聞各紙。私のアパートにて)

爽やかに怒れ!

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 憲法解釈変更による集団的自衛権の容認問題、それに都議会の性差別ヤジ問題、福島での環境相の「金目」発言等々、怒りを覚えるニュースが続いています。最近ちょっと陰に隠れがちですが、福島の原発事故の原因がいまだわからないままであるにもかかわらず、原発再稼働が経済優先で推し進めようとする動きもなくなっていません。本当にこの社会は、いったいどうなってしまっているのでしょうか。

 もっとも、さして驚くに値しないのかもしれません。自民党政治に飽き飽きして政権交代がようようやく実現したとき、私たちは少なからず政権についた民主党に期待をしました。ところが何ともお粗末な政権運営が続き、マニュフェストに明記された公約が守られないばかりか、それに反することが平気で行われる。それで、これならまだかつてのほうがよかったと多くの人が思ってしまった。そしてあっという間に自民党政治に戻してしまったわけです。自民大勝で、かつてよりもさらに地金がギラッと見えるような状況が増幅してしまったということでしょう。安倍首相にすれば、千載一遇のチャンスと思っているに違いない。

 私は、いわゆる「無党派層」です。特定の宗教もありません。しばらくは、ブログやツイッター等で、政治的な主張をすることをどちらかというと控えてきました。でも決して政治に関心がないわけではないし、むしろ強く関心を抱きつつあれこれ考えてきました。大学の講義でそうした話を全面に押し出すことはこれからもしませんが、この状況の中、声をあげないわけにはいかない。そんな気に強くなりました。

 これからは、あらためて声をあげていきます。やはり、おかしいことはおかしいとちゃんと言わないと。そして良質と思われるツイート等があれば拡散の一助となるようリツイート等もします。とにかく感情的になって怒るというのではなく、状況を見極めて、あくまで冷静に、そして、党派制にとらわれず、爽やかに怒りたい。加えて、どこかでユーモアも忘れずに。その方が、より多くの人の共感と反響を得られるのではと思うが故です。

 50年100年先に子孫が生きているとして、2014年あたりの時代はどんな時代に見えるのでしょう? 愚策の時代と見られてしまうことのないよう、私も少しスタンスを変えていきます。

 (写真は、息子と私の爽やかな怒りの表現!?)

命の話

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 研究生などの留学生たちと週に1回開いているゼミでは、時事問題を扱い新聞記事を読んでいます。日本の今の問題を日本語の新聞で読むというのは、留学生たちにとってはなかなか大変なのですが、大学院も目指そうという学生たちなので、それぐらいはできないとと思って取り組んでいます。

 6月23日は沖縄慰霊の日。そこで今回は、「へいわ」をテーマにした沖縄の子どもの詩を2編、ちょうど東京新聞に載っていたのを見つけたので、それを読んでもらいました。シンプルに平和を願い、戦争をやめない大人たちへのメッセージでもあると思いました。それなら私自身がかつて書いた文章も呼んでらもらおうと、プリントして渡しました。昨年3月、PTA会長として小学校の卒業式で読み上げた祝辞。テーマは「命」です。

 そのとき聞いてくれた息子も含めた子どもたちの心にどう響いたのかはわからないのですが、小学校の校長先生はじめまわりの大人たちにはわりと好評でした。今日読んでくれた留学生たちも、少しは何か感じるものがあったようです。ちょっと気恥ずかしいのですが、下に記します。

  (写真は、5月のものですが、「命」を感じさせる麦畑)

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 みなさん、ご卒業おめでとうございます。ついに小学校生活を終えるときがきましたね。今どんな気持ちで、この卒業式に臨んでいるでしょうか?

 12歳になったみなさん、ずいぶん身体も大きく立派になりました。さて、小学校を卒業していくみなさんに、少しだけ「命の話」をしたいと思います。みなさん、みなさんの最初の最初の始まりは何だったか、知っていますか?

 私たちはみな、最初は小さな小さなたったひとつの受精卵でした。その大きさは0.1ミリぐらい。重さは3/1000000グラムほど。針の穴よりも小さくて、目にも見えないぐらいのちっぽけな存在でした。そしてお母さんのお腹の中で約10ヶ月間、身長は50センチぐらい(約5千倍!)、体重は2000グラムから3000グラム前後(約10億倍!)にまで成長して、この世に生まれてきたのです。

 さて、みなさんが生まれてきたときは、どんなふうだったのでしょう? みなさん自身はおそらく覚えていませんね。でもお母さんやお父さん、あるいはみなさんを育ててくれた人たちは、きっとよく覚えていますよ。ちょっと気恥ずかしいかもしれませんが、今日家に帰ったら、「僕が生まれたときはどうだったの?」「私が生まれたときどんなだった?」と、ぜひ聞いてみてください。そこにはまだ、赤ん坊で一人では何もできなかった自分がいるはずです。

 最初はたった1つの受精卵。それが細胞分裂して成長し、人間の赤ん坊になって生まれてくるその変化は、とても驚くべき神秘的なことでもあります。もちろん生まれてからも、みなさんは本当に大きく成長しました。小学校1年生として入学したときに比べても、今のみなさんは大きくて、とても立派です。今は自分でもいろいろなことができますね。それにみなさんは、それぞれ一人一人名前をもった自分です。隣にいる友達と取って代わるなんてことはできません。その他ならぬ自分が、長い長い人類の歴史のなかでこの時代に今ここにいるということ自体が奇跡なのです。

 だから私たちは、文字通り「かけがえのない存在」です。だから、自分の命が大切なんです。自分の命が大切だということは、まわりの人の命も大切だということです。そして、自分を支えてくれる家族や友達との関係も、とても大切なのです。

 みなさんはもう、小学生に戻ることはありません。4月になれば中学生。勉強ももっと難しくなるでしょう。いよいよ大人の入口に立つことになりますね。これからまだ様々なことがあるでしょう。楽しいことや嬉しいことばかりではなく、悲しいことや辛いこともあるに違いありません。

 でも、生きていることは、それだけで素晴らしい。今ちょっと辛いなと感じたとしても、生きていること自体、たいへん意味のあることです。自分を大切に、そしてまわりの人たちも大切に、これからの人生をしっかり歩んでいってください。みなさんを引き続き温かく見守り、応援してくれる人がたくさんいます。みなさんは、その期待にも応えて、まだまだ学ばなければならないことがたくさんあります。学ぶことで私たちは大きく成長することができます。学ぶことに終わりはありません。学ぶことはきっと、一生涯続きます。

 もう一度、言います。小学校卒業おめでとう。可能性に満ちた若きみなさんの前途に、心からエールを贈ります。

                2013年(平成25年)3月19日 PTA会長 伊藤哲司

表現の力

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 昨夕、よく知っている学生たちが出演した演劇を見ました。普段教室で見る学生たちとは、まったくと言っていいくらい違う生き生きとした姿を垣間見ることができまいた。表現の力、演劇の力ですね。「冒険の布陣」と題され、監獄で巨匠監督が映画を撮ることになるというストーリー。マリリンモンローやケネディ大統領まで登場し、よく練られた展開でした。久しぶりに間近で演劇を見るという時間を持つことができました。
 30年ぐらい前の自分が学生だった時代、私は名古屋大学文学部の学生だったのですが、その文学部の友人たちにも演劇をやっているのが何人もいて、そのときも幾度か見にいきました。名古屋の大須にある七ツ寺スタジオというアングラなこぢんまりとした劇場で、床に座っての観劇は、お尻が痛くなりつつ、あまりよく意味がわからない台詞のオンパレード。でもそのときは、「これが前衛なんだ」と、「お前にわかるか?」と問われた気がしました。
 それに比べると昨日の演劇は、ずいぶん洗練されているようにも感じます。それは良くも悪くも。ストーリーがすべて了解可能でしたから。著名な寺山修司の「血は立ったまま眠っている」を水戸芸術館のテント公演で見たことがあるのですが、もっとワケがわからない、でも何か強烈なメッセージを感じたのを覚えています。
 でも、演劇という表現の可能性を、あらためて感じました。学生たちの演技にも拍手です。さらに、いい意味でむしろ洗練化に向かわない、メッセージ性に富んだ演劇が紡ぎ出されていくことを学生たちには期待します。自分は演劇はやらないけど、自身も表現者であり続けないといけないな。
 ところで自分の人生が、あらためて正式に舵を切ることになりました。そのことについては、またいずれ書いてみたいと思っています。とりあえず元気です。日常生活は特段変化なしです。前にジワリと進みます。
 (写真は、あまりクリアーではないけれど、水戸駅で登り方面を見渡した一枚)

くすのき

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 樹齢数百年には達しているであろう楠(くすのき)、こういう巨木に出会うと、なんだかそれだけで神々しい気持ちになるものですね。無神論者の私ですら、そんなことを感じます。これ一本で「森」とまでは言わないけど、相当な生命を育むゆりかごにもなっていることでしょう。こんな巨木が茨大水戸キャンパス内にあること、茨大生のみんなは知ってるかな?

 たまにですが、この神々しい巨木に触れてパワーをもらいます。私たちは、せいぜい100年しか生きられない存在。そんな存在でしかない私たちが、いがみあって憎しみあって、武器を取って戦い殺し合いをしたって、なんの役にも立ちません。私たちは本来「いのち」で繋がっている存在なのですから。

 この楠の巨木は、そんなことを思い起こさせてくれます。私が生まれたのは、名古屋市北区楠町味鋺でした。そんなことをついでに思い出させてもくれます。またたまには、この巨木に会いにいって、幹にぽんぽんと触れたいと思います。