伊藤哲司の「日々一歩一歩」

ここは、茨城大学で社会心理学を担当している伊藤哲司のページです。日々の生活および研究活動で、見て聞いて身体で感じることなどを発信していきます。

茨城大学の今後は……

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 先日行われた学長選考委員会で、現副学長の三村信男教授が次期学長候補者として決定しました。文部大臣の任命があって正式決定だと思いますが、実質的な決定です。海岸工学が専門で気候変動問題にも詳しく、IPCC(気候変動に関わる政府間パネル)にも長年参加してきた科学者でもある三村先生は、2006年に学内に設置されたICAS(地球変動適応科学研究機関)の機関長をずっと務めてこられました。サステイナビリティ学(持続可能性学)の研究/教育をリードするICASは、対外的にもわりと知られた茨大の組織で、私自身も当初からずっと深く関わってきました。そういう機関でもなければ、私が三村先生のような専門の方と知り合うこともなかったかもしれません。

 サステイナビリティ学に関わるのは、様々な分野の研究者なのですが、どうしてもやはり理系の研究者が多数を占めます。そうしたなかでも三村先生は、文系の発想や方法論にも理解を示し、対話的な方法を重視するという姿勢を全面に押し出してこられました。一人ひとりの話をよく聞いて、決めるべきことはすっかり決める、それでいて独りよがりには決してならず、ユーモアもありとても明るい――そんな姿を、わりと近くでずっと感じてきました。

 国立大学も学長の権限がますます強められようとしています。そうした中で誰が学長になるかは、言うまでもなくその大学の命運をかなり左右するわけです。学生が自ら育っていく大学、そして地域に根ざし、国際的にも通用する研究が展開される大学を目指すという三村先生の意見には、私もほぼ全面的に賛成です。茨大も今後、少しいい方向に変わっていけるのでは。風通しのよい大学運営を、とも思います。

 もちろん学内的にも問題は山積しています。学部改組を伴う改革の議論では、どうしても利害がぶつかり合います。私もそうした渦中にいて、これからさらに、いままでより重い役割がまわってくるのではないかと、そんな予感がしています。私も茨大22年目。先日50歳になり、もちろんもはや若手でもなく、中堅と呼ばれる位置も過ぎつつあるのかとそんなことを感じます。学長交代に伴って、私自身も少し質的な転換が図れていくといいなと、そんなふうに感じています。

 (写真上列左から3人目が三村先生。推薦をした同僚らとささやかに開いたお祝いの会にて)

やはり自然を身近に感じたい

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 以前は取り組んでいた不耕起の田んぼや畑での米・野菜作り、とりあえず関われる場所が今はなく、ちょっと寂しいなと思っているところです。アパートのベランダにプランターを置こうかと考えもしますが、今の生活になってまだ間もなく、あまり無理はしないことにしました。またそのうちに、自分で野菜をつくるようなことにもなっていくでしょう。

 ペットを飼うといっても一人暮らしではなかなかままならず。でもやっぱり自然を身近に感じたい――そう思ってベランダに、小鳥のえさを入れた小皿を据えてみました。すぐに小鳥が来ることはないでしょう。でもそのうち雀の1羽でも、これを見つけてくれたなら……。そう思って、気長に待ってみることにしました。

 本当は土のある生活がいいなとも思うのですが、考えてみれば、以前も結局手入れに手が回らなくなって、草だらけにしてしまったりということも多かった。今しばらくはこの生活でペースをつくって、また違ったかたちで自然を身近に感じられたらと思っています。

 さてさて小鳥たち、私のベランダにちゃんと来てくれるかな?

文洋さんの旅

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 石川文洋さんといえば、ベトナム戦争の報道等でよく知られている報道カメラマンですが、かつて茨城大学で3回も集中講義をしてもらったことがあり、そのお人柄と社会を見つめる真摯な姿勢に、大きな刺激と影響を受けてきました。ここ数年はお目にかかる機会がなかったのですが、銀座ニコンサロンで写真展が開かれるということで、久しぶりにお会いすることができました。

 単にお会いするだけでなく、サイゴン戦争証跡博物館のヴァン館長が来日するにあたって、通訳できる人を紹介してもらえないかという依頼が事前にあり、上智大学に留学中のよく知っているフオンさんという留学生を紹介し、事前の打ち合わせにも立ち会いました。そして写真展でのトークショーに続いて、ヴァンさんを福島にご案内するという小さな旅に、フオンさんとともに同行させてもらうこともできました。1泊2日の短い旅で、福島各地を視察するというものではありませんでしたが、枯れ葉剤の問題と重ね合わせて放射能災害の問題を見るヴァンさんの姿にも触れることができました。2歳年上の彼女ともよく知り合えたことも、私にとって大きな財産になっていきそうです。

 文洋さんが話をすれば、多くの人が、その分厚い経験に基づいた話に耳を傾けます。ただ「各地の9条の会に行って話をしても、若い人が少ないですね」と文洋さん。今回の銀座ニコンサロンでのトークショーには、私が連絡を入れた日本ベトナム学生会議の若い学生たちが来て、手を上げて質問もしていたのがよかったなと思いました。若い人たちの関心をもっと、と私も思います。「学校で子どもたちに話をすると、子どもたちのほうが素直。大人たちのほうが悪かったりしますからね」とも、文洋さんは話していました。

 私もまだ見ていないのですが、「石川文洋を旅する」というドキュメンタリー映画がまもなく公開されます。現在76歳。80歳になったら、65歳の時に続いてもう一度徒歩で日本縦断をするとかしないとか。私と同い年の奥さんの桂子さんにそのことを直接聞いてみたら、「いやいや、そんなのダメですよ」と笑いながら文洋さんの身体を気遣っておられましたが、さて。

 今年はとくに海外取材は予定していないと聞きました。やはり以前ほどの活発さはなくなってきているようです。でも6月には、文洋さんと行く沖縄の旅が企画されているようですし、古くからの友達とゆっくりベトナムを縦断してみたいとも語っていまいた。まだまだ文洋さんの旅は続くのでしょう。

 私も50歳になりましたが、まだまだですね。見習ってしっかり地に足をつけ、自分の旅を続けていきたいと思います。

 

50歳になりました

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 1964年(昭和39年)5月19日、名古屋市北区上飯田第一病院で、私はこの世に生を受けました。体重3550グラム、身長52センチ、胸囲34センチ、頭囲33.5センチ、取り上げてくれたのは奈倉道治医師と、母子手帳に記されています。生まれてくるまで性別がわからなかった時代、姉に続く第2子として生まれた私に母は、「男の子ですよと言われてすごく嬉しかった」と言います。

 その年の10月に東海道新幹線が開通、そして東京オリンピックが開かれました。高度経済成長が本格的に始まっていった時代、今とはもちろんずいぶん違いますが、私は本当の貧困というものを知らずに育ちました。戦中・戦後の大変な時代を知っている両親には、「あんたたちは幸せだよ」と言われました。父は働きながら大学を出ましたし、母は高校には行けず、中卒で働き始めた人です。自分が物心ついたときには、すでにテレビも電話もありました。

 0歳と1歳で腸重積症を患って入院したり、よく風邪をひいたりして、両親はどれだけ心配してくれただろうと思います。退院したときには足がフニャフニャで、「この子は大きくなるだろうか……?」と母は思ったといいます。母に負ぶわれて近所のかかりつけの医者に何度も通ったこと、時には医者が当時住んでいた長屋の狭い家に往診に来てくれたことは、今でもうっすらと覚えています。

 でも私は、外で遊ぶのが大好きな子でした。「ちびくろさんぼ」なんてまわりに言われ、自分でも日に焼けているのが元気な証拠と思っていた気がします。近所のいじめっ子に意地悪されて泣いて帰ったり、そんなこともありましたが、その後はわりと丈夫に育っていきました。小学生の時は野球にサッカー、中学生のときはバスケットボール、そして高校・大学とラグビーに熱中しました。

 ……ともかく産声を上げたあの日から丸50年、1日も途切れることなく、どうにかこうにか生きてきました。今こうしていられることは、母と父のお陰に他なりません。もちろん祖父母にも曾祖父母にも……誰に一人欠けても、今私はこうしていませんから。自分に連なる夥しい数のご先祖様がいてこそです。

 幸い50歳になっても、比較的心身ともに元気です。老眼鏡もまだいりません。わりとやりたいことをやれる境遇にいることに感謝しつつ、これからも1日1日を丁寧に生きていきたいと思います。最近、100歳超の刺しゅう作家の活躍を目の当たりにして、となると自分はまだ人生半ばかと思ったりしなくもありません。

 これからも自分なりに誠実に、自分の生を大切にしながら、自分にしかできない仕事をしていきます。まだ何がどうなっていくのかわからないのが、自分でも楽しみです。

40歳代最後の夕べに

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 ポールマッカートニーの東京・国立競技場でのコンサート、思い切ってチケットを買ってありました。今回逃したら、生で聴くことはないかもしれないと思いました。私が生まれた年(1964年)に東京オリンピックが開かれた場所にも行ってみたいと思っていました。昨日の公演が、ポールの体調不良で延期になり、ちょっと嫌な予感がなかったわけではありません。でもきっとあるんだろうと思い、水戸から高速バスに乗り、一人東京へと向かいました。

 大江戸線都庁前駅で乗り換えた際に、「本日のコンサートは中止になりました」との張り紙があり、あれっと思いました。でも、きっと昨日のアナウンスがそのまま残ってるんだろうと、勝手にそう思って国立競技場駅に向かいました。でも嫌な予感は的中。その駅で地下鉄を降りてみると、幾度も「本日のポールマッカートニーの公演は中止になりました」のアナウンスが流れ、大きく張り紙もしてありました。駅を出るときに、逆に戻ってくる多くの人とすれ違いました。中高年の人が多く、コンサート中止を知って諦めて変える人たちだということは、確信に変わりました。

 コンサートを野外で開くには絶好の初夏の日和。しかし主役がいないではコンサートにはなりません。私以上に残念そうな表情を浮かべ所在なげにしている人たちがたくさんいました。今日の日曜日、きっと遠方からわざわざ来た人もたくさんいたことでしょう。残念無念。他の多くの人たちに混じって、私も看板の写真だけ撮りました。

 昨日の代替のはずだった明日(19日)も中止が決定したとのこと。その後の武道館コンサートと大阪でのコンサートは今のところ予定通りだそうですが、国立競技場それは、このまま中止になってしまうのでしょうか。うーむ……。

 でも誰も責められないですね。ポールの早い快復を願って、これもまたひとつの記念かと思うことにします。明日はひとつ歳を重ね、いよいよ50歳の大台にのります。71歳にして世界中のファンを魅了し続けているポールの域にはとても行けませんが、私なりにまだまだやるべき仕事をやっていきます。

ほとんどが理系の研究者たちの中で

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 東京大学などいくつかの大学が参加しているSSC(サステイナビリティ・サイエンス・コンソーシアム)の研究集会が、筑波にある国立環境研究所で開かれました。年1回開かれているこの会、今回は自分に発表する機会がまわってきました。参加するのは初めて。20~30人ぐらいの参加者があり、午前中は研究所の研究紹介。続いて施設見学がありました。資源ゴミの燃焼実験などが行われているプラントを見せてもらうことができました。

 もともと国立公害研究所として高度成長期に始まったこの研究所、実際に勤務している200数十人の研究者のほとんどはいわゆる理系で、「環境」というのはすなわち自然環境あるいは物理的環境を指すようでした。話を聞くと、もちろんそれぞれ精緻に行われた研究の成果があり、それはそれで興味深いのですが、あまりそこに「人間」の姿は見えませんでした。自治体の関わりを視野に入れた取り組みがあることはわかりましたが、せいぜいそれ止まり。やはり理系なんだなと思いました。

 午後から行われた研究発表会、私の発表タイトルは「人間科学の立場からみたサステイナビリティ学」。自然科学(理系)とあえて人間科学(文系)を対置させ、むしろ相手と関わって知を生みだしていくこと、そこでは対話が大事で、正しい答えが必ずしもないことを強調しました。さてどんなふうに受けとめられるかなと内心ちょっと不安に思っていたのですが、わりと新鮮に受け止めてもらえたようです。あとで行われた懇親会で、「琴線に触れるお話で……」と言ってくれた中堅の研究者もいましたし、茨城大学大学院に興味を持ってくれた若手もいました。単なるお世辞ではなかったと思います。

 文系っぽい話をしたのは必ずしも私だけではなかったのですが、こういう話はわりと理系の研究者たちにとっては新鮮なのだろうなと、あらためて認識することができました。と同時に、自分のやっていることに少し自信を抱くこともできました。いくら理系の研究であっても、本来は人間の姿がそこにあるべきだと思います。こういう場の中でも、いくらか存在感をこれからも発揮してことができればと、そんなふうに思えた一日でした。

100歳になっても……

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 ここのところ続けて、100歳を越えようという女性たちの活躍を目の当たりにしました。ひとつは、107歳の刺しゅう作家・上杉みつ子さんの刺繍画、そして今年100歳になるという日本初の女性報道写真家・笹本恒子さんの写真。前者は、茨城県石岡市のまちかど情報センターで、後者は、横浜の日本新聞博物館で。ただただすごいと驚嘆するほかありませんでした。上杉さんの刺繍画は両親と見にいったのですが、明治40年(1907年)生まれ祖母(母の母)と同い年だということがわかり、二重にびっくりした次第です。

 自分自身はまもなく50歳の誕生日を迎えます。いい歳になってきたなぁなんて自分でも思うのですが、上杉さんや笹本さんは、その倍の時間を生きて、なお活躍中というのですから、自分がまだまだ「若造」のようにさえ思えてきます。

 自分がそこまで元気に生きるという姿はなかなか想像できませんが、少し元気をもらいました。自分の人生もまだまだこれからです。まだこれから、自分にしかできない仕事をやっていきます。

ささやかだけど少し親孝行ができたかな

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 今年のゴールデンウィーク、後半は4連休でした。最後の3日間、両親に名古屋からきてもらって、茨城と栃木に1泊ずつしてもらいました。初日は私のアパートに、2日目はこの春大学生になった娘のアパートに。

 80歳の域が見えてきた両親は、3月には一緒にベトナムハノイに行くなど、最近わりと元気です。それでも疲れやすさを考慮して、昼寝の時間を設けたりして、両親が無理なく移動できるようにしました。笠間の陶炎祭にも連れていきたかったのですが、思った以上の交通渋滞に、そこは無理せず断念したりして。

 石岡市で開かれていた107歳の刺しゅう作家・上杉ミツ子さんの作品は見にいきました。ご本人には会えませんでしたが、上杉さんが明治40年(1907年)生まれということを知った母は、「恵那の婆ちゃんと一緒だね」と。岐阜県恵那市は母の出身地。母の母、私の祖母のことで、私が小学6年のとき、70歳に至らぬ前に逝ってしまったのですが、もし生きていれば107歳なのかと感慨深く思いました。母はなおさらそう思ったことでしょう。

 栃木では、両親にとっては孫にあたる娘の運転する車で、那須湯本の鹿の湯に連れていきました。約1300年の歴史があるという温泉、41度から48度まで温度別の木製の湯船が並び、絵に描いたような独特の味わいがありました。私にとっても初めてでしたが、両親にとっても、こんな温泉は初めてだったようです。孫が通う大学にも立ち寄り、しっかり学生生活を始めている様子も知ってもらうことができました。

 名古屋から飛行機で茨城に飛んできた両親は、空から富士山がとても綺麗に見えたと喜んでいました。私が勤務する茨城大学も散策してもらうことができました(写真)。帰りは、那須塩原から東京経由で新幹線で。無事名古屋に着いたという連絡をもらい、私もホッとしました。

 最近「健康寿命」という言葉があるのを知りました。自立して自分で生活できる年齢を指すようですね。それが日本では70歳そこそこということも。それを考えると、両親はすでに長寿の域に入っています。私がまもなく50歳になるのですから、両親も歳をとって当然。でもまだまだ元気でいてほしいものです。私の人生も、まだまだこれからです。

常陸太田の御船祭!

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 ゴールデンウィーク後半の始まりの5月3日、5年に1回という珍しいお祭りがあるというので、留学生たちを連れて見にいってきました。福島県に隣接する茨城県北茨城市大津港付近。ゼミ生の留学生の1人が、この地で震災後のコミュニティの問題を取り上げフィールドワークを行っています。そのこともあって縁あって繋がっている地元の友人が案内してくれました。彼女の知人の家に寄せてもらい、用意された料理を頂きました。「これが日本の田舎のおもてなし。 遠慮なく食べて!」と。その日初めて会った私たちにご馳走するのに、なんの躊躇いもないのは、とても嬉しく有り難いことだと思います。コミュニティの人間関係の基盤ですね。

 震災復興と、海の安全、大量を祈願してのこの日、多くの人が故郷に戻ってきているようでした。震災で多くの家々が流され、とくに夜は閑散としてしまうようになったと。しかしこの日、多くの人々が集い、そして気持ちが通い合ったことでしょう。佐波波地祇(さわわちぎ)神社から下ろされたお神輿が何回も揉まれ、午後には御船に乗せられました。そして数トンもあろうかという御船が、ソロバンと呼ばれる板の上を揺らされぐっと引っ張られると、滑るように動きました。その様は迫力満点で、あたりからは歓声が上がり、摩擦で地面からは煙が上りました。勇壮な祭を間近で見られ、私もその一部になれたような気がしました。

 震災直後にこの地を訪れたときは、漁船が打ち上げられ、いくつもの家が流されているのを目の当たりにしました。それから3年。震災復興、そして海の安全の大量を祈願してのお祭りができたことは、地元の大きな力になったことでしょう。みなさん、いい顔していました。今後もまた、この地を何度も訪れてみたいと思います。

ボラバスに乗って

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 4月27日(日)に、茨城大学の学生団体「Fleur(フルール)」が企画したボランティアバスに、50数名の学生たちとともに乗りました。私にとっては2回の目のボラバス。東松島市の野蒜海岸の清掃作業、それに旧東名駅近辺に植えたシバザクラの草の手入れをしました。春の晴天に恵まれ、すがすがしい気持ちになれる時間を、若い学生たちと共にすることができました。

 今回もお世話になったのは、水戸の石塚観光のバス。もう一台のバスには社会人の参加者たちが乗っていて、総勢100名ぐらいでの作業になりました。社長の綿引さんに依れば、震災直後からはじまったこのボラバスで、延べ2万人ぐらいの人たちを被災地に連れていったことになるとのこと。その継続する力、毎度毎度やれることは小さくても、その積み重ねが大きな力になっていくことを実証してくれています。

 実はこの学生団体の顧問に、この4月から就きました。コアメンバーは、何かこれからもやってくれそうな、本当にたくましい学生たちです。まだまだその方針等で思い悩むことも多いようですが、私自身は一緒に可能な限り活動しつつ、そんな彼ら彼女らの思いを受けとめる存在としていられたらなと思います。

 被災地は、なお復興の途上です。今回、牡蠣の養殖業者のお爺さんと少し話をすることができました。やはりあの津波では大打撃を受け、宮城県にも原発事故の風評被害が及んでいることを教えてもらいました。そんな声にも耳を傾けつつ、私自身まだまだ歩いていかないといけないなと、あらためて思います。

 震災自体は不幸な出来事。失われた命は戻ってきません。でもそこから生まれた教訓や縁などは、しっかりこれからも繋いでいかないといけませんね。

ぼちぼちいこか

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 新年度が始まって間もなく1ヶ月。実にまあ自分でも呆れるくらい次から次へといろいろなことがあって、あまりゆっくり物事を考える間もなく時間が過ぎていきます。忙しいのは悪いことではないけれど、何か大事なことが置き去りになってしまうのは、よろしくありません。自分で気づくこともあるけれど、人に指摘されて初めて、やっていなかった仕事に気づいたりして……。

 そんなとき、先日「今日もがんばるぞ」とちょっと張り切って朝ダンベル体操をしていたら、軽く右腰をクキっとやってしまいました。不味いと思ったときには後の祭り。ちょっと様子を見ていたのですが、やっぱりおかしい。立っているだけとか、立ってしゃがむだけなら何も痛まないのだけれど、ちょっとひねるような動作になると、ピシッとしっかり痛みが走ります。腰のねんざというところでしょうか。

 きっと身体の中から、「あんまり無理すんなよ」というメッセージなのでしょう。こんなときは焦っても仕方がない。姉の好きな絵本である「ぼちぼちいこか」、そんなのを思い出しながら、ゆっくり着実にひとつひとつやっていこうと思います。身体に痛みがあると、動作も思考もちょっとゆっくりにならざるをえず、でもそれでちょうどいいのかな。

 こちらに引っ越した私のブログ、これまでのように毎日は書かないかもしれません。でも、ぼちぼちいこか。少しずつは更新していきますよ。

ブログ引っ越ししました

Yahoo!ジオログというサービスを今まで使ってきましたが、まもなくサービスが終了することがわかり、こちらに引っ越してきました。使い勝手がどうなのかとか、まだよくわからないことが多いのですが、こちらは広告の表示が少ないということのようなので、選んでみました。広告だらけのなかに自分の文章があるというのは、嫌ですからね。しばらくこちらで試してみます。
 写真もお試しで1枚載せてみます。

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