伊藤哲司の「日々一歩一歩」

ここは、茨城大学で社会心理学を担当している伊藤哲司のページです。日々の生活および研究活動で、見て聞いて身体で感じることなどを発信していきます。

大規模授業のやり甲斐と憂鬱

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 大学の授業で大人数の受講生を迎えることを嫌う教員は少なくないのが実情です。出席管理だけでも大変。まじめに聞かない学生も目立つ。どうしても授業の質が落ちる。テストやレポートの採点に膨大な時間が割かれる等々が理由でしょう。実際、一定数以上の受講生がいる授業を担当しなくてはならないというルールはなく、教室の定員を超える受講希望者がきたときは抽選してよいことになっていますから、最初から比較的小さめの教室を選ぶ教員もいるようです。

 私自身は逆に、来るものは拒まずで、むしろ来てくれるならいくらでもと思ってこれまで授業を担当してきました。教室に入りきらないくらい学生が来てくれたときも、授業を2つに分けて行うなどして対応したこともあります。抽選して外れた学生が出てくるのがイヤで、それをずっと避けてきました。だって、何らかの関心を持って学生が来てくれるのですから、拒むなんて論外と、個人的には思っています。

 そんなふうにしてこれまでやってきたら、とくに学部を問わず1年生が受講可能な教養科目の「人間科学への招待」という授業は、受講生が300人を毎年越えるようになりました。150人を越えると「大人数」と呼ばれるのですが、その倍は遙かに超えて、学内で最大規模だと思います。今年度の受講生は430人ぐらい。最初から500人超入る講堂を教室代わりにし、そこで授業を行ってきています。

 大人数だからといって一方的に講義をするのは、私の好むスタイルではありません。できるだけインターラクティブに、つまり受講生とやりとりしながら進めたい。受講生たちにも発言の機会があり、多くの声が交錯する場にしたいと考えています。また毎回学生たちには「コミュニケーション・カード」という用紙に記入をした授業の感想等を記して出してもらっています。

 そのためのひとつの仕掛けとして、Twitterを3年前から導入しました。震災後に私もTwitterを使い始めた時期でした。特定のハッシュタグをつけて、授業中に呟いていいということにしたのです。そのツイートはリアルタイムでスクリーンに映し出される、そんな仕組みにしてみました。こうすれば手を挙げて発言しづらくても、比較的自由に声を出せると考えました。そして他の受講生にとっても、それが刺激になるだろうと思いました。

 ところがなかなかそうは簡単にいかないもので、ニックネームで使えるTwitterは本当に誰の発言だかわからない。「誰が読むかわからないから責任あるツイートを」と話しても、どうしてもそうでないものが流れてくる。授業やりながらそれを私がコントロールすることは不可能で、授業後に次回から問題のあるツイートをしたアカウントからのものは表示されないようにするのが精一杯。どうやらこのやり方は、最終的にいろいろ工夫しても、授業のなかであまり有効に機能させられないという結論に至ってしまいました。

 コミュニケーション・カードは出欠確認を兼ねており、授業前に受講生たちに返し、授業後に記入してまた出してもらうようにしているのですが、最初にコミュニケション・カードだけ取って授業はサボり、適当に書いて出す(それが「出席」ということになってしまう)のが、実数は把握できないのですが、1人や2人ではなさそうだということもわかってきてしまいました。どうやってもズルを学生はいるものですが、こちらは目一杯キャパを大きくして授業に受け入れているのに、そういう行為は信頼を損ねるし、やはり私の立場から目をつむるわけにはいきません。

 講堂の椅子は、どちらかというと「安楽椅子」。午後一番の授業ということもあるのですが、かなりだらしのない格好で眠りこけている受講生の姿も目立つようになってきます。思いがけず寝てしまったというならやむを得ないのですが、どう見てもそうではなさそうな、つまり寝ててもどうにかなると思っているかのような大きな態度。お喋りされるよりはマシですが、どうしても教室全体の雰囲気がだらけます。授業の内容で惹きつけようにも、やはり限界もあります。

 Twitterは、もう使わないことにしました。コミュニケーション・カードをどうやって授業に実際に出てる学生だけに返すかは、まだ妙案がありません。遅刻してくる学生をどう扱うかも悩ましい。居眠り・お喋りにもなかなか有効な手立てがないのですが、後3列の席は使用禁止にしたら、多少は締まった雰囲気になったのですが、それも一時的なものかもしれません。

 8割以上の学生たちは、真剣に授業に臨んでくれていると思っています。完璧を目指さず、このあたりで妥協しながらやるしかないかとも思いますが、授業を担当する者の責任として、「授業の質が落ちている」とは言われたくない。そういうことをあれこれ考えると、大規模授業はそれ自体、なかなか憂鬱なものでもあります。

 今年度前期の授業も、残り3回。後期は、このような大規模授業の担当はありません。大半の学生は理解してくれていると考え、残りの授業にどうにか気を張って臨み、また来年度どんなふうにやるか考えてみたいと思います。多くの学生たちに一度に働きかけられる機会、ここまでの積み上げの成果でもあり、それを自ら失うことのないようにいきたいと思っています。