伊藤哲司の「日々一歩一歩」

ここは、茨城大学で社会心理学を担当している伊藤哲司のページです。日々の生活および研究活動で、見て聞いて身体で感じることなどを発信していきます。

閉ざされてしまった町で

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  先日(2014年8月2日)、福島の双葉町出身の大学院生・小野田明に案内してもらい、原発事故で立ち入りが厳しく制限されている大熊町双葉町浪江町を視察してきました。富岡町にから国道6号線を北上。まず、福島第2原発のところでスクリーニングを受けました。諸注意を受け、防護服や線量計、それに緊急用の無線などを渡されました。そこで説明してくれたのは、地元の方なのでしょうか。防護服を着ているわけでもないごく普通の「おばちゃん」でした。

 6号線に戻ってさらに北上。福島第一原発の入口を示す表示が見えました。あたりの田畑は夏草に一面覆われ、中に入っていく道の入口には、立ち入りを制限する表示とゲートが設けられていて、簡単に入ることができないようになっていました。線量は、1マイクロシーベルト/毎時ぐらい。極端に高くはないとはいえ、人が住み続けられる線量ではやはりありません。暑さもあり、防護服は結局着なかったのですが、それが渡された意図はもちろんわかります。

 小野田くんの案内で双葉海水浴場近辺に行ってみると、海岸伝いに福島第一原発が見えました。建屋の様子まではわかりませんが、煙突群などははっきりと見えます。あれが致命的な事故を起こした原発なのかと思うと、何か得体の知れない感情が湧き起こってきました。海はとてもきれいに見えるし、すぐにでも海水浴ができるかのよう。しかしそこで泳いでいる人は誰一人いません。

 小野田くんが子ども時代を過ごしたという双葉町のメインストリートは、地震で崩れたままの古い家屋がいくつもあり、商店のなかには値札がつけられた商品がそのままになっていました。郵便ポストは「取扱停止」の紙が投函口に。道は十分通れるようになっていましたが、復興がほとんど進んでいないのは、もちろん原発事故があったからに他なりません。ここに住んで生活を営んでいた人たちは、どこに散らばっていってしまっているのでしょうか。

 常磐線・双葉駅の駅舎は小ぶりであるものの、入口には時を告げていたのであろうからくり時計があって、公民館のような設備が隣接されていました。「あまり使われていなかった」と小野田くん。いわゆる原発マネーによる箱物なのでしょう。上野と仙台を結ぶ特急スーパーひたちも止まった駅のレールはすっかり赤く錆つて、草々が覆っていました。電車の復旧はいつのことになるのでしょうか。

 双葉町役場の近くなどに2つの「門」が設けられていて、そこにはこんな文字が大きく横書きされていました。

 「原子力郷土の発展豊かな未来」
 「原子力豊かな社会とまちづくり
 「原子力正しい理解で豊かなくらし」
 「原子力明るい未来のエネルギー」

 素朴に本気でそう考えた住民も少なくなかったのだろうと想像します。そのときの人々はしかし、現在の状況を想像したのでしょうか。

 さらに北上して浪江町に抜け、制限地域をいったん抜け、海沿いの請戸小学校へ行ってみると、津波の被害が激しい体育館も教室も、時計がすべて15時38分で止まっていました。地震から1時間足らずで大津波が到達したことを示しています。でも幸いにここの子どもたち・教職員たちは、素早い行動で無事全員避難ができたと聞きました。一部では「請戸の奇跡」と呼ばれていると、あとからネットで知りました。

 津波で運ばれた小型漁船が残るあたりで写真を撮っていると、パトロール中の警察官がやってきて「職務質問」されるという一面もありました。茨城大学から来たというと、若い警察官に「放射線の研究ですか」と聞かれ、「原発に潜入して写真を撮る人もいますからね」とやや警戒心を向けながら教えてくれました。

 再び制限地域に入り、6号線をまっすぐ南下。常磐富岡インターの手前でスクリーニングを受けました。たくさんのスタッフがそこにいて、車と足の裏の線量を測定され、無線機を返却し、そこでもまた防護服を着てない普通の「おばちゃん」から簡単な説明を受けました。南北に分断された6号線、そこを通るぐらいならもうできるようにしてもいいのではと、率直に思いました。

 被災地は何度も訪れていても、制限地域に入ったのは初めてでした。小野寺くんは、もっと紹介したいところがあると言います。「閉ざされてしまった町」がいつかまたちゃんと「開いた町」に戻れるまで、重大な関心を抱き続けていきたいと思います。

 (写真は双葉町にて。6号線から海の方向を眺めて。写っていないが、右手奥のほうが福島第一原発