伊藤哲司の「日々一歩一歩」

ここは、茨城大学で社会心理学を担当している伊藤哲司のページです。日々の生活および研究活動で、見て聞いて身体で感じることなどを発信していきます。

東北縦断の旅

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 東日本大震災から3年半近く、今年の夏は、またあらためて「被災地」を縦断してみようと思っていました。そしてそれを実現させるべく、2014年8月18日~24日にかけて約1週間にわたる東北の旅をしました。盛岡・宮古・遠野・気仙沼・仙台、そして娘のアパートがある大田原にそれぞれ1泊、計6泊の車の旅でした。車での走行距離は1670キロぐらい、日本列島縦断の半分以上になりました。
 父と娘、そしてベトナム人留学生が同行する、ちょっと不思議な組み合わせの4人旅でした。ひとつの家族のような、そうでもないような。でもずっと留学生のフオンさんも、私たちに馴染んでやってくれました。私の運転で、震災後にまだ行っていなかった青森県八戸まで北上し、そこからずっと三陸海岸を南下し宮城県女川町まで走りました。陸奥・陸中・陸前の三陸海岸、そこがすなわち大震災の未曾有の津波被災地になってしまったわけですが、そこをほぼ通して歩いてみることができました。
 三陸海岸の様子は、けっして一様ではありませんでした。そして復興の歩みも、それぞれ違った様相を見せていました。各々の地形、街の構造、そして社会事情等の違いもあります。高台移転が進みつつあるところ(野田)、もともと高台移転されていて被害が最小限だったところ(吉浜)、水門でしっかり守られたところ(譜代)、草原が広がったようになってしまったところ(大槌)、巨大なベルトコンベアで地面のかさ上げが進行中のところ(陸前高田)……。どこも、震災によって新たな問題が生じたというよりも、どれももともとその地が抱えていた「問題」が顕在化したと言うほうが正確だろうと思います。
 多くの人命が失われ、いまだ見つからない人も数多く、そのひとつひとつのかけがえのなさはけっして戻ってはきません。犠牲者に数多く接したという漁師の語りは、津波で亡くなった人はそのときのままの驚いたような表情のまま亡くなっていたといった生々しいものでした。私自身そうした厳しい状況には立ち会っていないという負い目も覚えました。あちこちでダンプが走り重機が動いている様子は復興の一端であり、そこには希望の光も垣間見えます。もちろん福島に行けば、復興のスタートにすら立てない厳しい現状もあります。
 私たちすべてが、この現実を忘れず向きあい続けていく必要があると思います。まだまだ長い道のりです。これからのことも含め、この経験を生かさないところに、私たちの社会の未来はないと思いました。東京オリンピック開催も大事でしょうけど、その前に忘れてはいけない現実があちこちにあります。傍観者であってはいけないと強く思います。私たちはみな、この震災の何らかの意味での「当事者」なのですから。
 父も、娘も、そして留学生も、きっと某かのことを掴んだでしょう。暑さに弱い母は残念ながら同行できませんでしたが、また機会をつくることを考えたいと思います。

 (写真は、草原のようになってしまった南三陸の町と防災対策庁舎)