伊藤哲司の「日々一歩一歩」

ここは、茨城大学で社会心理学を担当している伊藤哲司のページです。日々の生活および研究活動で、見て聞いて身体で感じることなどを発信していきます。

アイデンティティの拠り所

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 いわゆる従軍慰安婦に関する朝日新聞の「誤報」が問題になっています。朝日新聞が長年論拠のひとつとしていた証言が実は本当ではなかったということについて、他の新聞や週刊誌から、激しいバッシングが続いています。ここぞとばかりに、朝日新聞の廃刊まで主張する声もあるようです。

 もちろん「誤報」がいいわけはありません。事実であるならば、訂正されてしかるべきです。過ちを過ちと認めないという態度が許されるはずはありません。そのことを前提として考えても、今回の朝日バッシングには違和感を覚えます。端的に、あまりに度を超しているように思いますし、従軍慰安婦の問題がこれで「なかった」という話に繋げられるのは、まったく筋が通っていないからです。

 ある週刊誌は「売国のDNA」という見出しを掲げ、その雑誌の広告を朝日新聞が掲載拒否をしたということですが、「売国」とはいったい何なのでしょうか。国を売るってどういうこと? そもそもその「国」とは、何を指しているのでしょうか。

 「お国」という言い方には「故郷・古里」といった含意もありますが、ここでの「国」は、むしろ「国家」を指しているのだろうと思います。「国の誇り」と言うときの「国」とほぼ重なっているのでしょう。「国家」という言葉自体も多義的ですが、いずれにしてもそれは、個人のアイデンティティの拠り所のひとつになるうるものです。自分自身のアイデンティティの一部が「国」にあり、その「国」を売られてしまう、つまりそこに汚名を着せられるようなことがあっては、どうにもこうにも我慢ならないということかと推測します。

 いわばナショナリズム、それを重視する立場は、そのまま今の安倍首相をはじめとする政府の立場ともぴったり重なります。いわゆる河野談話を見なおすつもりはないとした菅官房長官も、本音では見なおしたいのではないでしょうか。しかしそれをやってしまえば中韓からの反発は必至。さすがにそれはということで、政治的な判断が働いているのだろうと思います。

 ナショナリズムのすべてを否定的にとらえなくてよいのかもしれませんが、ヘイトスピーチの問題を挙げるまでもなく、それはしばしば容易に排外主義に結びつきます。外から見れば「敵」に見えるでしょうし、国民国家という枠組みの収まらないところで生きている人たちに ― いわゆる在日の人たち、また無国籍の人たち等々 ― とっては、とても困惑させられるイズムでもあります。

 ちなみに、国家が武力行使という手段を視野に入れるときには、このナショナリズムが欠かせません。「国」にアイデンティティの拠り所を強く求める人々がいあるからこそ、「国」を守るための武力行使が可能になっていくのですから。

 私も「何人ですか?」と問われれば「日本人です」と答えます。日本人の親から生まれ、日本で生まれ育っち「日本文化」を自ずと身につけてきたことを思えば、「日本人」と答えるのに躊躇いは感じません。でも自分のアイデンティティの拠り所が日本という「国」にあるかと言われれば、答えは限りなくNoです。あえて言えば、私のアイデンティティの拠り所は、主には自分の身内や友人たちとのつながりにあります。それを「国」という単位でくくることはできません。だってそこには日本人以外も含まれているのですから。

 従軍慰安婦の問題については、何が起こったのかを率直に知りたい。それが日本という「国」にとって汚点となること、一部の人が言う「売国」であったとしても、何もそれを知ろうとしないままナショナリズムに傾倒していくのは、かえって人間として恥ずかしいことであると思うのです。

 ところで今年度前期、400人超の学生を相手に行った授業で、幾人かの受講生から、「先生は偏っている」といった結構激しい批判の言葉を受けました。最終レポートに伊藤は「浅慮」で授業は何も役に立たなかったという主旨のレポートを書いてきた学生もいまいた。私が招いたゲストスピーカーが偏っていてけしからんという声もありました。以前にも学生からの批判はありましたが、今年は妙にそれらが強い調子だなと感じました。

 いずれも私には顔を見せてこない受講生たちからの声です。直接話をしていないので、どんな学生たちなのかよくはわかりませんが、昨今の朝日バッシングに通じるような臭いをかんじます。あたかも一事が万事であるかのように取り上げ、しかもそれを自分の都合の良いようにねじ曲げて解釈して、決めつけから相手を全否定するような言動をとる傾向  ―― それが若い学生の中にも生まれているとしたら、これはかなり憂慮せねばならない事態だと思います。

 この時代、そんな学生たちのアイデンティティの拠り所にも、今後強く関心を抱いていかねばと思っている次第です。

 (写真はJR新宿駅・アルタ前。本文とはとくに関係ありません。)