伊藤哲司の「日々一歩一歩」

ここは、茨城大学で社会心理学を担当している伊藤哲司のページです。日々の生活および研究活動で、見て聞いて身体で感じることなどを発信していきます。

50歳になりました

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 1964年(昭和39年)5月19日、名古屋市北区上飯田第一病院で、私はこの世に生を受けました。体重3550グラム、身長52センチ、胸囲34センチ、頭囲33.5センチ、取り上げてくれたのは奈倉道治医師と、母子手帳に記されています。生まれてくるまで性別がわからなかった時代、姉に続く第2子として生まれた私に母は、「男の子ですよと言われてすごく嬉しかった」と言います。

 その年の10月に東海道新幹線が開通、そして東京オリンピックが開かれました。高度経済成長が本格的に始まっていった時代、今とはもちろんずいぶん違いますが、私は本当の貧困というものを知らずに育ちました。戦中・戦後の大変な時代を知っている両親には、「あんたたちは幸せだよ」と言われました。父は働きながら大学を出ましたし、母は高校には行けず、中卒で働き始めた人です。自分が物心ついたときには、すでにテレビも電話もありました。

 0歳と1歳で腸重積症を患って入院したり、よく風邪をひいたりして、両親はどれだけ心配してくれただろうと思います。退院したときには足がフニャフニャで、「この子は大きくなるだろうか……?」と母は思ったといいます。母に負ぶわれて近所のかかりつけの医者に何度も通ったこと、時には医者が当時住んでいた長屋の狭い家に往診に来てくれたことは、今でもうっすらと覚えています。

 でも私は、外で遊ぶのが大好きな子でした。「ちびくろさんぼ」なんてまわりに言われ、自分でも日に焼けているのが元気な証拠と思っていた気がします。近所のいじめっ子に意地悪されて泣いて帰ったり、そんなこともありましたが、その後はわりと丈夫に育っていきました。小学生の時は野球にサッカー、中学生のときはバスケットボール、そして高校・大学とラグビーに熱中しました。

 ……ともかく産声を上げたあの日から丸50年、1日も途切れることなく、どうにかこうにか生きてきました。今こうしていられることは、母と父のお陰に他なりません。もちろん祖父母にも曾祖父母にも……誰に一人欠けても、今私はこうしていませんから。自分に連なる夥しい数のご先祖様がいてこそです。

 幸い50歳になっても、比較的心身ともに元気です。老眼鏡もまだいりません。わりとやりたいことをやれる境遇にいることに感謝しつつ、これからも1日1日を丁寧に生きていきたいと思います。最近、100歳超の刺しゅう作家の活躍を目の当たりにして、となると自分はまだ人生半ばかと思ったりしなくもありません。

 これからも自分なりに誠実に、自分の生を大切にしながら、自分にしかできない仕事をしていきます。まだ何がどうなっていくのかわからないのが、自分でも楽しみです。